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抽象喜劇(退治屋作者の超日常?改め)

競い羅漢の歴史--近世3(江戸中期)

大嘘だべさ~

 競い羅漢の禁は、2代将軍だった徳川秀忠が亡くなった翌年の正月から、
5代将軍・徳川綱吉が亡くなった年まで75年以上続いた。

 特に、『生類哀れみの令』と同時の頃には、
準備していた羅漢像で野良犬に擦り傷を負わせただけで、
長期間の島流しを受けた例は枚挙にいとまがない。
 中には、羅漢像が回っている途中にハエを潰しただけで百叩きを受けたという、
ある意味訳のわからない罰を受けてしまったものもあるという。

 その後、6代将軍・徳川家宣の時代になって、『生類哀れみの令』廃止と同時に、
競い羅漢の禁も解かれた。
 家宣が競い羅漢の愛好者であったことが、功を奏した形だ。
それ故、綱吉と家宣の仲はあまり芳しいものではなかった。
 家宣は側近の一人である間部詮房と一緒に競い羅漢を楽しむのが常であったが、
新井白石は競い羅漢があまり好きでなく、家宣の競い羅漢好きに眉をひそめていた。
 家宣は勝率もそこそこであったが、その家宣の死後、
新井白石は、7代将軍・徳川家継の時代には競い羅漢を禁止しようとした。
 しかし、すぐ家継が幼くして亡くなったため、白石の構想は泡と消えた。

 その後、8代将軍は御三家から選ばれることになったが、
そのときになぜか競い羅漢が行われたらしい。
 要は御三家が競い羅漢好きであったことによるものであろう。
 最初に負けた水戸家・綱條。しかし、意外と羅漢像の損傷はなく、
台座が少し欠けただけであった。
 あとは尾張家と紀伊家の争いになったが、尾張家の羅漢像があえなく四散、
結局は優勝した紀伊家の紀伊頼方が、8代将軍徳川吉宗となった。
 その後、尾張継友は若くしてこの世を去り、
その跡を継いだ宗春は、吉宗へのリベンジを目指すべく、
競い羅漢の修行に励んだことはいうまでもない。

 余談だが、水戸家の当主であった水戸光圀公は、
犬の毛皮を送っても行状の改まらなかった5代将軍綱吉に、
反省を迫るということで競い羅漢に使われる羅漢像を大量に送ったとされるが、
それでも行状が改まることがなかった。

 吉宗から3代の間は競い羅漢は許されていたが、
その後、11代将軍・徳川家斉になって以降、競い羅漢は禁じられたらしい。
これについては次回以降に語りたい。
by hokutoff | 2007-03-01 17:55 | 虚構ドキュメンタリー